陋見漫録

学窓に惟ふ。

陋たる所見は漫然と之を録す

 私がツイッターを始めたのは高校二年の九月の事でありました。元来携帯を持たぬ私が、級友たちとの連絡手段を持たんとして始めたというのがその目的でありましたが、いつしか短文の日記帳として日々の雑事を取り留めもなく書き記す「人生の記録」としての役割を担わしむる様になったのであります。

 

 爾来数年を経過致しまして、今や私も大学三回生。目下前期の定期考査に青息吐息の状態でありますが、ここで唐突ながらはてなブログ界隈への参入を試みに行ってみようと思い立ちました。

 

 何となれば、これは正しく、ツイッターの140文字制限では書ききれぬ彼是が私の頭の中に少なからぬ量堆積せられてきたからに他ならないのであります。

 

 あの日、あの時、あの瞬間。一体己が何を考え、何を思惟し、何を思索して居ったのか。これは凡そある程度の分量を以てせずして、その有する所の全きを得心せしむる事は、応に不可能なるべきものと言わねばなりません。

 

 畢竟当ブログはまさに日記帳である処のツイッターの長文版という点に帰するのであります。従って、ここにおいては短文投稿では尽くし得ぬ自らの陋見の彼是を、ただ只管に思い付くまま気の向くままに漫然と書き連ねて行こうと考えて居る次第であります。

 

 はてなブログが潰れるが先か、我が命の尽くるが先か、それは定かではありませぬが、10年、20年の星霜を重ねたる後、自ら投稿せし幾多の愚見、愚察を一瞥して「嗚呼懐かしき哉」と溜息の一つもこぼす事があるならば、日記帳の真髄の発揮せらるゝ事これに優るは無いと考うるのであります。

 

 文章乱にして拙、語法悪にして雑を極むるは最早如何とも弁明する能わざる所でありますが、御高覧の光栄を忝う致しました御仁に、そしてまたこれを後々恥辱と赤面との中に見る事となるべき後来の私に、この微衷が披歴を奉献せんとするものでありますれば、請い願わくは寸毫の愉しみをば与うるに至らんことを。

 

両祖母が戦時体験小話

 毎年八月になりますと、終戦記念日という事で以て、多様の戦争を題材とせる番組が放送せられますけれども、本年はこれに少し興味深い話題が加わって居りました。

 

 終戦の年は申すまでもなく昭和廿年、一九四五年であります。そこから高度成長や石油危機、バブル、金融不況、リーマンショック等々あらゆる時代の変遷を経て、既にして今年を以て終戦より七十三年もの年が経過をしてしまったのであります。

 

 然らば、終戦時十歳であった人物が今年ではや齢八十三を迎えらるゝわけであります。凡そ平均寿命程度の水準であって、さらに兵士、社会人としてはっきりと当時の実情を自ら関与する形で以て記憶せられている人物とせば、終戦時二十歳と仮定して本年を以て齢九十三を迎えらるゝ事となるわけであります。

 

 本邦の人口ピラミッドに鑑みまするに、八十歳を超えると人口が目に見えて著減している様が明示せられています。

 

 本年の終戦記念日付近に放送せられていた番組の中における「興味深い話題」というは、他ならぬこの一挙に人口が減少する世代に戦前世代が突入した中、遺品整理において貴重なるべきあらゆる史料(日記・手紙その他)が無思慮に廃棄せられ、あるいは散逸して居るというものであります。

 

 また物品のみならず、当然の事ながら当時を生きた世代の記憶の声というものも漸次消滅をしてしまっております。 

 

 こうした趣旨の番組を見て居って、思えば自らの両祖母もこの辺りの年代であったという点に思いを致し(両祖父は何れも私が生まるゝ前に他界)、とりあえずは身内の戦時体験を少しく残し置かん事を期して、丁度別居せる母方の祖母宅へ赴く機会のありしを奇貨として聞き取りを行い、記憶が曖昧となるを予見してここに明らかに書き記す事と致しました。

 

 先づは父方の祖母から。祖母は昭和六年(一九三一年)生まれで、本年以て八六歳であります。

 

 昭和六年生まれでありますから、大東亜戦の開戦十六年の時点で十歳。勿論女ですから兵士になど取られてはおりませぬし、社会人でもありませんでした。

 

 祖母は当時浜松の上島に住んで居ったそうでありますが、祖母の主な戦争体験は戦争も末期になってからの勤労動員であります。

 

 期間にして約三か月程度、愛知県岡崎の軍需工場(本人は何を作っているのかわからなかったそうだが「なんとか尾翼」との発言から見て飛行機関連と思わるゝ。垂直尾翼?)で働いていたそうであります。この工場には同時期東北方面から(福島出身と聞いたそう)同じく勤労動員せられた子供もいたそうで、あまりにも訛りが甚しく、何を喋っているのか全く聞き取れなかったそうであります。テレビの普及する前の遠い昔の話。「方言札」があった頃の思い出と言えましょう。

 

 どういうわけだか祖母は(本人も理由がわからず)終戦での帰宅ではなく終戦前に浜松へ帰宅する事が出来たそうでありますが(二十年七月十九日に岡崎空襲があったが祖母はそれを体験していないのでそれ以前に帰省した模様。その前にも何度か帰宅していたとの事だが、切符は朝から長蛇の列で手に入れるのに苦労したとか)、勤労動員が終わって帰って来たときには浜松市街は全くの廃墟と化し、市街地は消滅していたとの事。

 

 記録によると浜松市は昭和20年以降断続的に空襲を受けて居り、末期の七月終りには艦砲射撃で沿岸部が潰滅していますが、祖母の住んでいた上島地区は内陸部かつ都市部でなかったが為、空襲も艦砲射撃も受くることなくして無事であったそうです。

 

 さらに上島は田舎だったために、米こそ無けれ、芋などは潤沢にあり、都会の人間が着物だ何だと持ってきては辺りの食料に目をつけて「あれをくれ」「これをくれ」と言ってきたそうであります。

 

  これ以外にも、皇紀二千六百年の祝いの砌には物資不足の中紅白饅頭が一人一人に下賜せられた話。これは祖母が祖父より聞いた話ではありますが、未だ戦死者の僅少であった支那事変の折、戦死者を出した祖父の家には軍刀引っさげた将校が見舞いに訪れ、町葬という形で人々が列をなして英霊を弔いにやって来た話などを聞いた事があります。

 

 その他我が家には(大量に授与せられた勲章なるも)支那事変従軍記章や勲八等白色桐葉章が保管せられております。有名な「金鵄勲章」(功七級)や大正三四年戦役(青島攻略戦)従軍記章も存在しております。

 

 我が家に残る当時のものと言えばこの勲章程度ではありますが、私が終生確と保管をしておく心づもりであります。

 

 さて続いて母方の祖母。こちらは大正14年生まれで、正しく終戦時には二十歳を迎えていた、本年以て九十三歳という歴史の生き証人であります。

 

 現在は静岡の片田舎にその住居を移して居りますけれども、終戦のその年までは横浜に住んで居りました。

 

 祖母は尋常高等小学校を卒業後、14歳で横浜郵便局(本局)の窓口担当者として採用せられ、大東亜戦開戦前から既に社会人として働いていたとの事(本局は尋常高等卒の女性は三人ほどしかとっていなかったそうで、優秀だったのだと自慢して居りました)。

 

 横浜は二十年の五月二九日に大規模な空襲を受けておりますが、当然祖母もその記憶を持って居りました。

 

 空襲は記録では朝の9時台から行われたとされておりますが、なんと祖母は空襲の真っ最中も郵便局内で窓口業務に従事していたそうです(とはいってもそんな状況で局に来る人間も居なかったとの事でありますが)。

 

 郵便局本局とだけあって頑丈なコンクリート製の建築物であった事、周囲の建物は建物疎開で撤去せられており、防空壕が周囲にあるわけでもないために外に逃げるよりは中にいた方が余程ましだという事で何もしなかったという訳だとか。それにしても退避行動もとらずにそのまま業務を続けていたというのは中々衝撃的な話ではなかろうかと思います。

 

 空襲が終り、幸運にも本局には一発も命中せずに無事業務を終えて帰宅する事となりましたが、郵便局は無事であっても、自らの家の存在した市街地方面へ足を運ぶと全く以て焼け野原で、家々にあった防火水槽に体を突っ込んで亡くなっている死体があちこちに見られたそうであります。

 

 そんな中で祖母の家も当然焼かれてしまっておりましたが、幸いにも両親は着の身着のまま山の方へ逃げて行って何とか助かっていたとの事。

 

 そうこうしているうちに終戦を迎え、港横浜は進駐軍の外人が大量に上がってくることが容易に予想せられ、若い娘がいるには大変危険であるという事から、終戦の直後には両親の在所であった静岡に引っ越す事となり、現在に至るのであります。

 

 郵便局員であったこともあって、現在も母方の実家には戦時中の記念切手などが大量に保管されており(比島陥落記念切手などという字面には興奮した覚えがあります)、また戦地へ持って行って無事帰還した武運長久の寄せ書きの日の丸なども大切に保管せられております。

 

 実家に存在せる前述の勲章は別として、これら母方の実家の代物は”いよいよ”という際には私が死に物狂いで廃棄を防いで引き取りに行かねばなりませぬ。考えてみればこうした物品も、興味も関心もない人間から見てみれば古びたごみでしかないのでありましょう。なればこそ今この瞬間にも戦前世代の大切な保管品は無下に廃棄せられているのであるのだろうと思います。

 

  個人の日記や写真なども大切な「史料」の一部であります。本邦有史における重大な出来事に関連せる記録でありますから、もっと丁重に扱っては頂けぬものかと、切にそう願う次第であります。

「言辞の意味」と「学問的精神」とに就て

  「言葉」というものは大変に深厚にして奥妙なる趣を有するものであります。私自身多少なりとも漢文や古典に造詣を深からしめんと賽の河原に石を積んでおりますからして、或いは意味を論ずるにも、或いは正誤を断ずるにも、殊に緻密子細に及ぶ調査確認の上これを行わずんば非ざる事は、固よりの事であろうと覚悟している次第であります。

 

 然るに、輓近ネット上に於いて種々議論(と呼ぶに値せるや否や甚だ疑問なれど)せらるゝ処、また、これ正道なりと豪語する自称マナー啓発サイトの乱造せらるゝを見るに至り、甚だ以て「学問的精神」を欠如せる低水準の議論、また断定の氾濫し居るを憂えざる能わざるのであります。

 

 「言辞の意味」というものを、如何様に調査検討し、如何様にその正誤を断ずるか。これが例一つを以てしても、「学問的精神」とは何ぞやという設問への、一つの解答を与うることが出来るのであろうと思うのであります。

 

 各位は、苟くもその字義不案内なる言辞に相対せる事あらば、如何にしてこれを明らかにして以て得心せんとせらるゝものでありましょうか。

 

 今日においてはネット検索(デジタル大辞林等)を以て誠に手軽に、また三省堂、新明解の如き小判辞典や、大辞泉広辞苑の如き”中判”辞典をご利用になるやもしれませぬ。

 

 「出典:大辞林」「出典:大辞泉」の如き文字列は誠によく散見せらるゝ処であります。しかしながら、斯の如く言葉の意味を云々し、あれは正なりあれは誤なりと断じて居るサイト等において、本邦唯一の”大判”国語辞典たる「日本国語大辞典」を出典としたものをついぞ目にしたること無きは一体どの様な所以によるものでありましょうか。よもやその存在を知らぬのでありましょうか。

 

 古語であれば「角川古語大辞典」漢語であれば「大漢和辞典」と、上記三つにあたってさえ居らぬものは最低限度の水準をも満たし居らざると申せざるを得ないのであります。

 

 申すまでもなく、辞書というものにはしばしば特徴的の要素並びにその特化せる用途が存在して居ります(方言辞典、語源辞典等)から、一概に「日国をすら参照せずして以て焉んぞ字義を語るを得んや。」と排するものではありませぬ。大漢和に関しても、辞書自体が大変古いがために多く問題を抱えて居り、「漢語大辞典」や「中文大辞典」を使用し得るならば其方にあたるがより便に適う事もありましょう。とかく、私の申し上げんとする処は、「言辞、軽々に是を論ず可からず」というものであります。

 

 上記三辞典にあたる事を考えもせず、あまつさえその存在すら知る事無くして、何を以てか字義を云々する事が出来るでありましょう。言葉というものは然まで低劣のものに非ざる事を十二分に弁えて頂きたいものであります。

 

 然し、真に申し上げんとする処はこの点ではありませぬ。各位は「辞書に記述あるに全幅の信頼置かるゝ勿れ」という趣旨の言葉を一聴したことがありませぬか。実はここに私の言わんとする「学問的精神」の真髄が含有せられて居るのであります。

 

 辞典と申しますは、古今あまねく用例を収集し、是が語法を種々検討の上適当の解を導出し、然る後これを字義として以て記述したるものに他なりませぬ。

 

 斯の如くんば、真に学問的精神に基づける字義、語法の論断を行わんと欲すれば、その手法は上記のものと全く同一にならねばならないはずであります。

 

 斯かる訓話を何処にか聴いた覚えがあります。それは大学院において、この言辞の字義は何であるか答えよと質問せられた学生が、「何某であります。」と返答したる所、教授再び訪ねて曰く、「何故そう言えるか。」と。これに学生再び答えて曰く、「何某辞典、また何某、何某にそう記述あれば。」と。然れば教授も周囲学生も当該学生を白眼視したりき、と。

 

 畢竟この訓話の意味するところは、各種の辞典辞書を参照するのみならずして、自ら原典、用例の調査検討を密に行ってこそ、初めて学問的調査検討の水準に達して居るのであるというものなのでありましょう。

 

 日国には初出例が記載されて居りますが、それ以前の使用例が存在する事もままあります。また大漢和の字義解説には不明瞭なものもあり、その場合当然該漢語の他の使用例にあたって自ら字義を明らかにせんとするの要が生じ得るのであります。古語においても、また同様であります。

 

 即ち、「学問的精神」とは、「辞書に記載あれば」に止まる事無くして、自ら以てこれを調査検討する、斯の如き行動、精神にこれを求むる事が出来るのであります。

 

 また某所において(恐らく研究者の方か)発言せらるゝことには、「日本人なれば当然日本語の専門家であるかの如き傲慢な態度」「”私の語感では”など恐ろしくて到底口に出来ない」と。

 

 まさに、字義や語法を論ずるには、上記の如く「学問的精神」に基づける綿密緻密なる周到な調査検討を要するという事を念頭に置いての発言でありましょう。言葉の意味は一二冊の辞典によって尽く明らかにす可きものでも、まして無学な一個人の何ら採るに値せざる感覚などというものによって断ぜらるゝものでもないのであります。当該発言には全く以て衷心より同意せずんば非ざる処であります。

 

 一体、この「学問的精神」は本来学究の徒たるべき書生諸氏にしてあまり持ち合わせていらっしゃらぬ様に感ぜらるゝのであります。蓋し、斯かる思考回路を薫陶醸成する環境を整備せらるゝ事無くしては、天賦の才ある者を除くの他これを有し得ざるのでありましょう。

 

 思えば、理系各位は学部生にして実験や様々の報告を執筆するにあたってすでに学士の時点にて斯かる精神を体得していらっしゃるのではないかと推察致します(詳らかには分かりませぬが)。然るにかたや文系は如何でありましょう。余程高水準の大学に身を置くか、同様に高水準のゼミに所属をする事無くしては、学部生中にこうした精神を身に付くる事は遺憾ながら無いのではないでしょうか。

 

 そう思えば、文系と申せども、院に進学をするという事は、真に当人にして絶大な進歩と学問的精神の体得とをもたらすものであって、凡そ「無益の虚学に時間を浪費」しているというが如き事はないのであります。またそのような精神を元来有せる人物の院進学を為すの多きは申すまでもない事でありましょう。私の周囲を一瞥するに相違ありませぬ。

 

 当初低劣な国語論議の氾濫への怒りを以て執筆を致しましたるが、結びには、斯かる精神を陶冶薫陶せしめられたる優秀な修士博士各位を正当に評価登用せらるゝ民間企業の一社にても世に増加するを見ん事を切望して、この駄文を終わりと致す次第であります。

 

追記,私は反国語国字改革論者でありますが、そうでなくとも戦後の国語国字改革に基づける「国語」を基準として以て正誤を論ずるが如きは噴飯ものと言う他ないはずであります。時折賢しらに「公文書作成の要領」他各種通達、告示等を挙げてこれは正しくこれは誤りなどゝ論ずる輩が居りますが、尽く死滅せしむべきであると言わねばなりませぬ。戦後の粗雑極まりなき「国語改革」を基準と据えて字義の正誤を論ずるが如き、愚劣の極であります。我々が参考とすべき告示など「文法上許容スベキ事項」の如き一部のもののみであると言えましょう。)

我が精神と昭和歌謡との関連に就て

 各位は「懐メロ」という言葉をご案内の事と存じます。テレビを見ていても(とは申せども私は殆んど見る事はありませぬが)時折耳にする事のある言葉であると言えましょう。当節懐メロという言葉で以て形容せらるゝ楽曲の中には、将に二十年の歳月を経んとする2000年代劈頭の楽曲さえ含まるゝであろう事は想像に難くありません。

 

 然しながら「元祖懐メロ」とでも申しましょうか。とにかく原初の意味における懐メロとは、一体明治維新から1950年代までの(童謡・唱歌・軍歌・戦時歌謡等を含む)歌謡曲を指すものに他ならなかったのであります。

 

 私は、この真なる意味における懐メロというものを、凡そ他に比すべからざる程に愛好し、かつこの上もなく愛慕しております。

 

 輓近、私はふと「何故私は斯くまでもこの様な時代の歌謡曲というものを好むところとなったのだろうか」という一つの疑問を思い浮かぶる様になりました。そこで、その要因として自分なりに導き出したる一つの答えをば、この場において開陳してみようと思います。

 

 「私は古い歌が好きだ」この様におっしゃる若年の方々は決して極端な少数派などと呼称し得る程度の僅少に限定せらるゝものではありません。そこかしこに発見する事が出来ます。これは偏にインターネットの功績と断ずる事が可能なもので、前述の如き私の「元祖懐メロ」好きもまたインターネット無くして成立する能わざるものであった事は言を俟たないのであります。

 

 ところが、私の肌感覚(現実の周囲やネット上も含めて)で申すところ、この様な方々は概して遡っても1960年代までの歌謡曲が好きな人間で打ち止めされてしまい、1950年代以前となりますとまるでその姿を見る事が出来なくなってしまうのです。

 

 これは一体どういう事が原因であるのか。私は正にこの点において前述の疑問の回答を導出するに至ったのであります。

 

 1950年代と60年代というは、丁度SPレコードとEP・LPレコードの変遷せらるゝ節目にあたる時代でありまして、音楽的にもそれまでの垢抜けぬ、泥臭く感ぜられたものから戦後の洋楽の大量流入(固より戦前から洋楽は入流して居りましたけれども、戦後はいよいよこれが強化せられたのであります)の定着とある種の洗練とによって、音楽全体がますます都会的かつ垢ぬけたものに変化していった時代でもあります。

 

 実際のところは斯くまで明確に時代を分断せしむる事は出来ませぬ。戦前よりジャズレコードはありましたし、50年代にもロカビリーブームがあり、また逆に60年代以降にも「演歌」という泥臭さの極に達せる音楽分野が誕生しておりますからして、必ずしもこの画期を絶対的のものとすることは能わざるところですが、当節の若人からして受け入るゝ事の可能なる音楽が、従前の時代と比して爆発的の増加を見たという点で大なる変革の存したる事は、凡そ見紛うべからざる事実であろうと思います。

 

 更には前述の如く、SP、EP・LPレコードの変遷という、媒体的の変化をもその所以として挙ぐる事が出来るかもわかりません。「SPレコードの猶身を削るが如き響き」という台詞が一聴凡てを体現して居る如く感ぜられまするが、大量の雑音と、LP盤等に比してモノラルと低音質とに甘んぜざる能わざるSP盤の音の響きは、やはり当節の若者にとっては凡そ耐え難い音質であるのでしょう。これは白黒映画と総天然色、白黒テレビとカラーテレビの違いに然も似たりと言えるでしょうか。

 

 やはりこうした種々の相違が互いに相作用しあって、50年代以前を「戦前」や「戦後」、60年代以降は「昭和」という時代の概念に変化せしめてしまったのではないでしょうか。

 

 となれば、私の最初の問いに対する答えは「50年代以前(戦前戦後という概念の時代)の音楽を好むところと為す精神」そしてその精神を「何故保持しているのか」という事の説明によって全きを期する事が出来ると考うるのであります。

 

 思えば、嘗て、1970年代までの日本と言えば未だ発展途上であり、国中に貧しさに喘ぐ光景が散見された時代でありました。

 

 角栄登場以前と言えば、地方は満足に道路整備もせらるゝ事無く、戦後に建てた木造家屋は風呂も無ければ、便所は汲み取り式を擁する貧相なものばかりで、そうした現在の貧困や格差を優に上回る極貧と窮乏の様相が日本中に山と存在していたのであります。

 

 こうした景色は時代を下る毎にその数を減少せしめてゆき、80年代に入ると大勢として表に露出するという事は無くなりました。60年代、実際に貧困なりし地方より大挙して以て上京した若者たちが歌った数々の歌には、真に地方の実情というものが想いとして込められておりましたけれども、この時代になりますと「俺ら東京さ行ぐだ」の如く最早地方の貧困や後進性は戯画化せらるゝ程度のものになっていたのであります。

 

 さても特に貧しかった1950年代以前。大きなビルや見事に舗装せられた道路や雲霞の如く押し寄せ走りゆく自動車の数々も、田舎の人間たちには夢物語か絵巻の中でしか見る事の出来ぬ光景であったあの時代。人々は都会的で洗練され、垢ぬけている(如く感ぜらるゝ)強力に洋楽的の旋律の濃い音楽や、あるいは洋楽そのものではなく、ヨナ抜きや田舎節、都節、民謡浪曲の影響を受けたような短調で素朴である歌謡曲を大いに聴き、好んだのではないでしょうか。

 

 特に戦前の日本は甚大な貧困を抱えておりました。五大国の一角、世界的には一等国とはいえ、貧しい家は娘を売り、倅は奉公に出され、電気の通わぬ村々も珍しくない時代であります。斯の如き時代において、一部の大都市を除けば、その家々から聞こえ来る音楽の旋律が(電子音楽などの発展は抜きにして)現下若人たちが愛聴してやまぬヒット曲の数々の如くであろうと、何を以てか考うる事が出来るでありましょうか。

 

 これ等の時代の歌謡曲の数々に(固より明朗なる歌曲も多々ありますが)哀しい曲調のものが多いのにはその所以があります。素朴で、泥臭く、垢抜けず、一聴「ダサい」「古臭い」と感ぜらるゝにも理由があるのです。何よりもこれらの歌謡曲を聞いていた人々こそが、垢抜けず、泥臭い精神をもった人々だったればに他ならないのであります。

 

 既にして、日本は絶大の経済的成長を遂げ、世界に冠たる総生産第2位、3位の地位を占むるに至ってはや数十年。如何なる辺境、辺鄙なる地方にさえ道路は整備され、遍く水洗便所と下水道は行き渡り、最早風呂を擁さぬ家屋は無理に捜索をせねば見付からぬ時代となりました。

 

 今高台からこの茫漠たる大都市の姿を眺むれば、家も、土地も、人々も、嘗ての時代とは比べ物にならぬ「清潔さ」を持つようになった事、一瞥以て了解する事ができるのであります。

 

 今やSP盤時代の歌謡曲が受ける事などありません。上記の如く、時代が貧しさと泥臭さとを払拭せしめてしまったからであります。今を生きる中年以前の世代には、最早嘗てあの歌謡曲を興隆させ、日本中において唱和せしめた精神構造は全く存在していないのであります。そして、況や私と同世代の大学生前後においてをや。であります。

 

 そう思うにつけ、私は強烈なる疎外感を抱かざるを得なくなります。これはまさに私が、泥臭く、貧しかった時代の精神を有し居ればこそでありましょう。しかし、率直に申し上げまして、「何故そうなのか」という問いに対する回答は困難を極むるところと言わねばなりません。

 

 慢性的に鬱であればこそなるか、器量の頗る悪しきに依るものか、単に昭和趣味の昂じたるものというべきか。凡て該当せるものであるのか。

 

 いずれにしましても、ただ一つ申し上ぐるを得る事がございます。それは私にとって、SP盤時代の歌謡曲が好きであるという事は、私という一人の人間において非常に統一性の確保せられた状態であるという事であります。

 

 貧困にして泥臭き人格。垢抜けず困窮せる容姿。哀調切々というべきか我が人生。私はあらゆる点において斯の如く、本稿にいう所の「昭和歌謡的精神」が発露せられているのであります。ですから、本当に私と昭和歌謡曲というものの天命と言うべき運命的の一致には自ら嘆息する程であります。如何程違和感というものが存しないことか。

 

 とにもかくにも、明確に「こうであるからこのような精神なのである」と申し上げる事は何とも致しかねますが、上記の如く、私に関する事すべてにおいて「泥臭さ」や「貧しさ」という共通点が見受けらるゝという点にこそ、私が昭和歌謡を好むところと為す要因が汲み取り得るのではないかと感ずる次第であります。

 

 何と申しましても、本当に素晴らしい作品の数々であります。私は、この様な作品を素晴らしいと感ずる事を得る人格と精神とに生れ出でたることを、ただただ衷心より欣快に感じてやまないばかりなのであります。