陋見漫録

学窓に惟ふ。

「言辞の意味」と「学問的精神」とに就て

  「言葉」というものは大変に深厚にして奥妙なる趣を有するものであります。私自身多少なりとも漢文や古典に造詣を深からしめんと賽の河原に石を積んでおりますからして、或いは意味を論ずるにも、或いは正誤を断ずるにも、殊に緻密子細に及ぶ調査確認の上これを行わずんば非ざる事は、固よりの事であろうと覚悟している次第であります。

 

 然るに、輓近ネット上に於いて種々議論(と呼ぶに値せるや否や甚だ疑問なれど)せらるゝ処、また、これ正道なりと豪語する自称マナー啓発サイトの乱造せらるゝを見るに至り、甚だ以て「学問的精神」を欠如せる低水準の議論、また断定の氾濫し居るを憂えざる能わざるのであります。

 

 「言辞の意味」というものを、如何様に調査検討し、如何様にその正誤を断ずるか。これが例一つを以てしても、「学問的精神」とは何ぞやという設問への、一つの解答を与うることが出来るのであろうと思うのであります。

 

 各位は、苟くもその字義不案内なる言辞に相対せる事あらば、如何にしてこれを明らかにして以て得心せんとせらるゝものでありましょうか。

 

 今日においてはネット検索(デジタル大辞林等)を以て誠に手軽に、また三省堂、新明解の如き小判辞典や、大辞泉広辞苑の如き”中判”辞典をご利用になるやもしれませぬ。

 

 「出典:大辞林」「出典:大辞泉」の如き文字列は誠によく散見せらるゝ処であります。しかしながら、斯の如く言葉の意味を云々し、あれは正なりあれは誤なりと断じて居るサイト等において、本邦唯一の”大判”国語辞典たる「日本国語大辞典」を出典としたものをついぞ目にしたること無きは一体どの様な所以によるものでありましょうか。よもやその存在を知らぬのでありましょうか。

 

 古語であれば「角川古語大辞典」漢語であれば「大漢和辞典」と、上記三つにあたってさえ居らぬものは最低限度の水準をも満たし居らざると申せざるを得ないのであります。

 

 申すまでもなく、辞書というものにはしばしば特徴的の要素並びにその特化せる用途が存在して居ります(方言辞典、語源辞典等)から、一概に「日国をすら参照せずして以て焉んぞ字義を語るを得んや。」と排するものではありませぬ。大漢和に関しても、辞書自体が大変古いがために多く問題を抱えて居り、「漢語大辞典」や「中文大辞典」を使用し得るならば其方にあたるがより便に適う事もありましょう。とかく、私の申し上げんとする処は、「言辞、軽々に是を論ず可からず」というものであります。

 

 上記三辞典にあたる事を考えもせず、あまつさえその存在すら知る事無くして、何を以てか字義を云々する事が出来るでありましょう。言葉というものは然まで低劣のものに非ざる事を十二分に弁えて頂きたいものであります。

 

 然し、真に申し上げんとする処はこの点ではありませぬ。各位は「辞書に記述あるに全幅の信頼置かるゝ勿れ」という趣旨の言葉を一聴したことがありませぬか。実はここに私の言わんとする「学問的精神」の真髄が含有せられて居るのであります。

 

 辞典と申しますは、古今あまねく用例を収集し、是が語法を種々検討の上適当の解を導出し、然る後これを字義として以て記述したるものに他なりませぬ。

 

 斯の如くんば、真に学問的精神に基づける字義、語法の論断を行わんと欲すれば、その手法は上記のものと全く同一にならねばならないはずであります。

 

 斯かる訓話を何処にか聴いた覚えがあります。それは大学院において、この言辞の字義は何であるか答えよと質問せられた学生が、「何某であります。」と返答したる所、教授再び訪ねて曰く、「何故そう言えるか。」と。これに学生再び答えて曰く、「何某辞典、また何某、何某にそう記述あれば。」と。然れば教授も周囲学生も当該学生を白眼視したりき、と。

 

 畢竟この訓話の意味するところは、各種の辞典辞書を参照するのみならずして、自ら原典、用例の調査検討を密に行ってこそ、初めて学問的調査検討の水準に達して居るのであるというものなのでありましょう。

 

 日国には初出例が記載されて居りますが、それ以前の使用例が存在する事もままあります。また大漢和の字義解説には不明瞭なものもあり、その場合当然該漢語の他の使用例にあたって自ら字義を明らかにせんとするの要が生じ得るのであります。古語においても、また同様であります。

 

 即ち、「学問的精神」とは、「辞書に記載あれば」に止まる事無くして、自ら以てこれを調査検討する、斯の如き行動、精神にこれを求むる事が出来るのであります。

 

 また某所において(恐らく研究者の方か)発言せらるゝことには、「日本人なれば当然日本語の専門家であるかの如き傲慢な態度」「”私の語感では”など恐ろしくて到底口に出来ない」と。

 

 まさに、字義や語法を論ずるには、上記の如く「学問的精神」に基づける綿密緻密なる周到な調査検討を要するという事を念頭に置いての発言でありましょう。言葉の意味は一二冊の辞典によって尽く明らかにす可きものでも、まして無学な一個人の何ら採るに値せざる感覚などというものによって断ぜらるゝものでもないのであります。当該発言には全く以て衷心より同意せずんば非ざる処であります。

 

 一体、この「学問的精神」は本来学究の徒たるべき書生諸氏にしてあまり持ち合わせていらっしゃらぬ様に感ぜらるゝのであります。蓋し、斯かる思考回路を薫陶醸成する環境を整備せらるゝ事無くしては、天賦の才ある者を除くの他これを有し得ざるのでありましょう。

 

 思えば、理系各位は学部生にして実験や様々の報告を執筆するにあたってすでに学士の時点にて斯かる精神を体得していらっしゃるのではないかと推察致します(詳らかには分かりませぬが)。然るにかたや文系は如何でありましょう。余程高水準の大学に身を置くか、同様に高水準のゼミに所属をする事無くしては、学部生中にこうした精神を身に付くる事は遺憾ながら無いのではないでしょうか。

 

 そう思えば、文系と申せども、院に進学をするという事は、真に当人にして絶大な進歩と学問的精神の体得とをもたらすものであって、凡そ「無益の虚学に時間を浪費」しているというが如き事はないのであります。またそのような精神を元来有せる人物の院進学を為すの多きは申すまでもない事でありましょう。私の周囲を一瞥するに相違ありませぬ。

 

 当初低劣な国語論議の氾濫への怒りを以て執筆を致しましたるが、結びには、斯かる精神を陶冶薫陶せしめられたる優秀な修士博士各位を正当に評価登用せらるゝ民間企業の一社にても世に増加するを見ん事を切望して、この駄文を終わりと致す次第であります。

 

追記,私は反国語国字改革論者でありますが、そうでなくとも戦後の国語国字改革に基づける「国語」を基準として以て正誤を論ずるが如きは噴飯ものと言う他ないはずであります。時折賢しらに「公文書作成の要領」他各種通達、告示等を挙げてこれは正しくこれは誤りなどゝ論ずる輩が居りますが、尽く死滅せしむべきであると言わねばなりませぬ。戦後の粗雑極まりなき「国語改革」を基準と据えて字義の正誤を論ずるが如き、愚劣の極であります。我々が参考とすべき告示など「文法上許容スベキ事項」の如き一部のもののみであると言えましょう。)