陋見漫録

学窓に惟ふ。

両祖母が戦時体験小話

 毎年八月になりますと、終戦記念日という事で以て、多様の戦争を題材とせる番組が放送せられますけれども、本年はこれに少し興味深い話題が加わって居りました。

 

 終戦の年は申すまでもなく昭和廿年、一九四五年であります。そこから高度成長や石油危機、バブル、金融不況、リーマンショック等々あらゆる時代の変遷を経て、既にして今年を以て終戦より七十三年もの年が経過をしてしまったのであります。

 

 然らば、終戦時十歳であった人物が今年ではや齢八十三を迎えらるゝわけであります。凡そ平均寿命程度の水準であって、さらに兵士、社会人としてはっきりと当時の実情を自ら関与する形で以て記憶せられている人物とせば、終戦時二十歳と仮定して本年を以て齢九十三を迎えらるゝ事となるわけであります。

 

 本邦の人口ピラミッドに鑑みまするに、八十歳を超えると人口が目に見えて著減している様が明示せられています。

 

 本年の終戦記念日付近に放送せられていた番組の中における「興味深い話題」というは、他ならぬこの一挙に人口が減少する世代に戦前世代が突入した中、遺品整理において貴重なるべきあらゆる史料(日記・手紙その他)が無思慮に廃棄せられ、あるいは散逸して居るというものであります。

 

 また物品のみならず、当然の事ながら当時を生きた世代の記憶の声というものも漸次消滅をしてしまっております。 

 

 こうした趣旨の番組を見て居って、思えば自らの両祖母もこの辺りの年代であったという点に思いを致し(両祖父は何れも私が生まるゝ前に他界)、とりあえずは身内の戦時体験を少しく残し置かん事を期して、丁度別居せる母方の祖母宅へ赴く機会のありしを奇貨として聞き取りを行い、記憶が曖昧となるを予見してここに明らかに書き記す事と致しました。

 

 先づは父方の祖母から。祖母は昭和六年(一九三一年)生まれで、本年以て八六歳であります。

 

 昭和六年生まれでありますから、大東亜戦の開戦十六年の時点で十歳。勿論女ですから兵士になど取られてはおりませぬし、社会人でもありませんでした。

 

 祖母は当時浜松の上島に住んで居ったそうでありますが、祖母の主な戦争体験は戦争も末期になってからの勤労動員であります。

 

 期間にして約三か月程度、愛知県岡崎の軍需工場(本人は何を作っているのかわからなかったそうだが「なんとか尾翼」との発言から見て飛行機関連と思わるゝ。垂直尾翼?)で働いていたそうであります。この工場には同時期東北方面から(福島出身と聞いたそう)同じく勤労動員せられた子供もいたそうで、あまりにも訛りが甚しく、何を喋っているのか全く聞き取れなかったそうであります。テレビの普及する前の遠い昔の話。「方言札」があった頃の思い出と言えましょう。

 

 どういうわけだか祖母は(本人も理由がわからず)終戦での帰宅ではなく終戦前に浜松へ帰宅する事が出来たそうでありますが(二十年七月十九日に岡崎空襲があったが祖母はそれを体験していないのでそれ以前に帰省した模様。その前にも何度か帰宅していたとの事だが、切符は朝から長蛇の列で手に入れるのに苦労したとか)、勤労動員が終わって帰って来たときには浜松市街は全くの廃墟と化し、市街地は消滅していたとの事。

 

 記録によると浜松市は昭和20年以降断続的に空襲を受けて居り、末期の七月終りには艦砲射撃で沿岸部が潰滅していますが、祖母の住んでいた上島地区は内陸部かつ都市部でなかったが為、空襲も艦砲射撃も受くることなくして無事であったそうです。

 

 さらに上島は田舎だったために、米こそ無けれ、芋などは潤沢にあり、都会の人間が着物だ何だと持ってきては辺りの食料に目をつけて「あれをくれ」「これをくれ」と言ってきたそうであります。

 

  これ以外にも、皇紀二千六百年の祝いの砌には物資不足の中紅白饅頭が一人一人に下賜せられた話。これは祖母が祖父より聞いた話ではありますが、未だ戦死者の僅少であった支那事変の折、戦死者を出した祖父の家には軍刀引っさげた将校が見舞いに訪れ、町葬という形で人々が列をなして英霊を弔いにやって来た話などを聞いた事があります。

 

 その他我が家には(大量に授与せられた勲章なるも)支那事変従軍記章や勲八等白色桐葉章が保管せられております。有名な「金鵄勲章」(功七級)や大正三四年戦役(青島攻略戦)従軍記章も存在しております。

 

 我が家に残る当時のものと言えばこの勲章程度ではありますが、私が終生確と保管をしておく心づもりであります。

 

 さて続いて母方の祖母。こちらは大正14年生まれで、正しく終戦時には二十歳を迎えていた、本年以て九十三歳という歴史の生き証人であります。

 

 現在は静岡の片田舎にその住居を移して居りますけれども、終戦のその年までは横浜に住んで居りました。

 

 祖母は尋常高等小学校を卒業後、14歳で横浜郵便局(本局)の窓口担当者として採用せられ、大東亜戦開戦前から既に社会人として働いていたとの事(本局は尋常高等卒の女性は三人ほどしかとっていなかったそうで、優秀だったのだと自慢して居りました)。

 

 横浜は二十年の五月二九日に大規模な空襲を受けておりますが、当然祖母もその記憶を持って居りました。

 

 空襲は記録では朝の9時台から行われたとされておりますが、なんと祖母は空襲の真っ最中も郵便局内で窓口業務に従事していたそうです(とはいってもそんな状況で局に来る人間も居なかったとの事でありますが)。

 

 郵便局本局とだけあって頑丈なコンクリート製の建築物であった事、周囲の建物は建物疎開で撤去せられており、防空壕が周囲にあるわけでもないために外に逃げるよりは中にいた方が余程ましだという事で何もしなかったという訳だとか。それにしても退避行動もとらずにそのまま業務を続けていたというのは中々衝撃的な話ではなかろうかと思います。

 

 空襲が終り、幸運にも本局には一発も命中せずに無事業務を終えて帰宅する事となりましたが、郵便局は無事であっても、自らの家の存在した市街地方面へ足を運ぶと全く以て焼け野原で、家々にあった防火水槽に体を突っ込んで亡くなっている死体があちこちに見られたそうであります。

 

 そんな中で祖母の家も当然焼かれてしまっておりましたが、幸いにも両親は着の身着のまま山の方へ逃げて行って何とか助かっていたとの事。

 

 そうこうしているうちに終戦を迎え、港横浜は進駐軍の外人が大量に上がってくることが容易に予想せられ、若い娘がいるには大変危険であるという事から、終戦の直後には両親の在所であった静岡に引っ越す事となり、現在に至るのであります。

 

 郵便局員であったこともあって、現在も母方の実家には戦時中の記念切手などが大量に保管されており(比島陥落記念切手などという字面には興奮した覚えがあります)、また戦地へ持って行って無事帰還した武運長久の寄せ書きの日の丸なども大切に保管せられております。

 

 実家に存在せる前述の勲章は別として、これら母方の実家の代物は”いよいよ”という際には私が死に物狂いで廃棄を防いで引き取りに行かねばなりませぬ。考えてみればこうした物品も、興味も関心もない人間から見てみれば古びたごみでしかないのでありましょう。なればこそ今この瞬間にも戦前世代の大切な保管品は無下に廃棄せられているのであるのだろうと思います。

 

  個人の日記や写真なども大切な「史料」の一部であります。本邦有史における重大な出来事に関連せる記録でありますから、もっと丁重に扱っては頂けぬものかと、切にそう願う次第であります。